親父と娘〜心臓移植を越えて乾杯へ〜

同じ心臓病の娘と親父。娘の移植を乗り越え乾杯を目指す。娘を守るかっこいい親父でありたい。

あの日から今まで③(3月)

 

3月は、次女の命の危険を生々しく感じた月。

 

でも同時に、それを乗り越える次女の強さを目の当たりにした月でもあった。

 

 

 

3月1日

次女は入院している病院から、移植に向けて補助人工心臓を装着するため、大きな大学病院へ移った。

 

今回も次女は救急車で、私たち夫婦は車で移動し、目的地で合流となった。

 

私たちが到着すると、すでに次女が乗っていた救急車が停まっていて、本人はICUに入っていると言われた。

 

ICU前で待っていると、前の病院の医師と看護師が引き継ぎを終えて出てきた。

ドタバタの中、ここまでお世話になった御礼を伝えて見送り、再びICU前で待った。

 

待っていると、今度は以前オンライン面会で事前の打ち合わせをした医師が通りかかり、挨拶した。

ドラマに出てきそうな、背の高い女性の医師。

子供の心臓移植を専門としていて、渡米移植にも同行したことがあると聞いた。

「娘さん頑張ってくれてるから、もうちょっと待ってて下さいね」との事だった。

 

 

 

その後ついに呼ばれ、マスクと防護服を着てICUへ入った。

 

たくさんの医師や看護師に囲まれているベッドで次女が眠っていた。

 

しかし、前の病院で見たときよりも大きく浮腫んで、呼吸がかなり早い。

 

移動による心臓への負担が大きかったのかもしれないが、おそらく一時的なものだろうと言われた。

 

心配だったが、主治医となる先ほどの医師との打ち合わせがあり、私たちは次女のもとを離れた。

 

 

打ち合わせでは、改めて移植や補助人工心臓についての話を聞いた。

どうやらこれから1ヶ月程度かけて次女の状態を確認し、病院内の会議などを通したあと、補助人工心臓の装着および移植待機の登録をして、付き添い入院が始まるという流れ。

分厚い資料やサインする書類の多さに圧倒されながら、なんとか冷静に説明を聞いた。

 

そしてここでも再度、親としての覚悟があるのか確認された。

付き添い入院になるが長女のことは大丈夫なのか、いざと言うときにサポートしてくれる人物はいるか、なども強く確認された。

 

不安だらけではあるが、ここまできたらやるしかないので全てYES。他に答えがない。

 

この日はこれで帰宅となった。

 

 

翌日は私がオムツなどの必要品を届けに行き、短時間だけ面会もできた。

しかしこの日も、次女の浮腫みと呼吸の早さは変わっていなかった。

看護師から、お父さん泣きすぎ!と言われた。

 

 

3月3日

主治医より、次女の状態が変わらず、このままでは危険であるため、かなり前倒しして3月5日に補助人工心臓の装着手術をすると言われた。

 

 

3月4日

主治医より、正式に移植待機の登録申請を出したとの事。

 

 

3月5日

補助人工心臓の装着手術の日。

手術時間は5〜6時間の予定。

長女の保育園送り出しがあるため私は家に残り、妻が次女を手術へ見送った。

次女は泣いていたが呼吸が落ち着き、現在のベストコンディションで手術へ向かったそう。

 

その後、昼に夫婦バトンタッチ。

予定時間を大きく過ぎて、約8時間の手術が終わったと聞き、私はICU前で呼ばれるのを待った。

 

執刀医がきて話をしてくれた。

成功したが、次女の心臓は予想以上に病気が進行していたため装着に時間がかかったと言う。

 

 

そして補助人工心臓を着けた次女と再会。

本人は麻酔が効いて眠っていた。

数えきれないほどの管がつながっていたが、その中で特に太い2本の管が人工心臓本体と次女の心臓の左心室を結んでいた。これが命綱。

 

心臓が拡張していて胸を閉めることができなかったようで、青いビニルで胸は隠されていた。

 

これで良くなる、という気持ちと、

見た目が痛々しくて辛い、という気持ちだった。

 

本人が目を覚ますのは翌日以降らしいので、私は帰ることになった。もう夜だった。

 

 

帰りの電車の中で、妻に詳細や写真を送って報告していた。

 

その時、電話がかかってきた。

病院からだった。

最寄りの駅で降り、すぐに折り返した。

 

 

手術の執刀医から

「娘さんの状態が急に悪化した。原因はまだ分かってないが調べている。万が一の場合もあるから、病院に戻る準備をしておいて下さい。いや、もう向かっていただいても構いません。ご家族も一緒に。」

 

 

何と返事したか覚えてないが、戻る旨を伝えたはず。

 

そして妻に電話した。

冷静でいられたのは最初の2秒ぐらい?

みっともないが駅のホームで泣きながら説明した。

 

そして私の兄姉にも電話し、病院に来てくれるようお願いした。

 

 

一度帰宅して、準備して、妻と長女と一緒に車で病院へ向かった。

 

訳の分からない気分で運転していたと思う。

あの子は大丈夫、大丈夫。

と話していた覚えはある。

 

 

病院へ着く少し前に、再び病院から電話が鳴り、妻が出た。

 

妻の声色で、次女が助かったことを感じた。

 

もう一度次女の胸を開いて確認すると、胸に水分が溜まっていたらしく、それを抜いたところ容体が安定したとの事だった。

 

良かった。それしか言えない。

 

 

しかしその日はもう遅かったため、私たちは病院近くのホテルに泊まった。

兄姉も念のため近くの別のホテルに泊まってくれていた。

 

 

3月6日

妻が面会のためにホテルに残り、私と長女は車で帰宅した。

 

帰宅後しばらくして、妻からLINEが。

 

「また病院に呼ばれた。右心室が予想より悪く、補助してる左心室とのバランスがとれていない。また弁の動きも悪く、血の逆流も起こっている。このままは危ないのでもう一度手術をする」

 

 

2日連続で命の危機なんてあり得るのか。 

なぜそんなにうちの子は過酷?

家族4人揃ってる写真だってまだ1枚しか撮れていない。

 

 

長女を再び車に乗せて、病院へ向かった。

今回は到着前に解決したという連絡はなかった。

 

 

到着し、ただひたすら待った。

兄姉にも再び来てもらい、長女の遊び相手を任せた。

 

夜遅かったため、妻に病院で待機してもらい、一旦ホテルの部屋を取りに行った。

ホテルにいるときに病院からの電話が鳴った。

手術が終了したようだった。 

 

 

病院へ戻り、夫婦で説明を受けた。

 

弁を手術で治したところ、なんとか右心室の動きが改善されて血の巡りが良くなり、逆流もなくなったという事だった。

 

 

心から安堵した。

次女は2日間で3回の開胸手術、2回の命の危機を乗り越えてくれた。

 

この2日間は生きた心地がせず、このときから数日間の写真を見返すと自分の目の腫れがひどかった。

 

 

その後も次女がMRSAという菌に感染してしまい、しばらく会えない期間などがあった。

しかし補助人工心臓のおかげで浮腫みもなくなり、状態ははっきりと良くなっていた。

 

 

3月24日

次女がICUから病棟へ移り、この日から親の付き添い入院が始まった。

 

同時にこの日から、私と妻は病院と自宅に別れる(2週間ごとに交代)ため会えず、長女にとっては親が常に1人しかいない状態となり、家族が揃うことのない日々が始まった。

 

長女が時々「ママがいない」「パパがいない」と言うが、それでも次女のことを分かってくれているようで、元気に頑張ってくれている。

頑張らせてしまっていることが心苦しい。

 

 

寂しさはあるが、ずっとではない。

家族で協力して乗り越える。

 

 

色々あった3月だった。